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Mar
27th
Sat
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「大きな目的のためになら自分は死んでもいい」ってずっと思ってると、「目的のために他人が死んでもいいんだ」っていうことにすり替わっちゃう時があるんですよ。
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ひとりで見る夢は夢でしかない。
しかし誰かと見る夢は現実だ。
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わたしはもっと色々な話がしたいのに、みんな面倒くさそうにするから悲しい。
ワニのおなか (via trss) (via ne3)
Jan
17th
Sun
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夢見たものは ひとつの幸福
 
ねがつたものは ひとつの愛
 
山なみのあちらにも しづかな村がある
 
明るい日曜日の 青い空がある

 
日傘をさした 田舎の娘らが
 
着かざつて 唄をうたつてゐる
 
大きなまるい輪をかいて
 
田舎の娘らが 踊りををどつてゐる

 
告げて うたつてゐるのは
 
青い翼の一羽の 小鳥
 
低い枝で うたつてゐる

 
夢見たものは ひとつの愛
 
ねがつたものは ひとつの幸福
 
それらはすべてここに ある と

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誰しもはじめは、お手本に拠って習練を積むのですが、一個の創作家たるものが、いつまでもお手本の匂いから脱する事が出来ぬというのは、まことに腑甲斐(ふがい)ない話であります。はっきり言うと、君は未だに誰かの調子を真似しています。そこに目標を置いているようです。〈芸術的〉という、あやふやな装飾の観念を捨てたらよい。生きる事は、芸術でありません。自然も、芸術でありません。さらに極言すれば、小説も芸術でありません。小説を芸術として考えようとしたところに、小説の堕落が胚胎(はいたい)していたという説を耳にした事がありますが、自分もそれを支持して居ります。創作に於いて最も当然に努めなければならぬ事は、〈正確を期する事〉であります。その他には、何もありません。風車が悪魔に見えた時には、ためらわず悪魔の描写をなすべきであります。また風車が、やはり風車以外のものには見えなかった時は、そのまま風車の描写をするがよい。風車が、実は、風車そのものに見えているのだけれども、それを悪魔のように描写しなければ〈芸術的〉でないかと思って、さまざま見え透いた工夫をして、ロマンチックを気取っている馬鹿な作家もありますが、あんなのは、一生かかったって何一つ掴めない。小説に於いては、決して芸術的雰囲気をねらっては、いけません。あれは、お手本のあねさまの絵の上に、薄い紙を載せ、震えながら鉛筆で透き写しをしているような、全く滑稽(こっけい)な幼い遊戯であります。一つとして見るべきものがありません。雰囲気の醸成を企図する事は、やはり自涜(じとく)であります。〈チエホフ的に〉などと少しでも意識したならば、かならず無慙(むざん)に失敗します。無闇(むやみ)に字面(じづら)を飾り、ことさらに漢字を避けたり、不要の風景の描写をしたり、みだりに花の名を記したりする事は厳に慎しみ、ただ実直に、印象の正確を期する事一つに努力してみて下さい。君には未だ、君自身の印象というものが無いようにさえ見える。それでは、いつまで経っても何一つ正確に描写する事が出来ない筈です。主観的たれ! 強い一つの主観を持ってすすめ。単純な眼を持て。
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何の為に生きているかなんて一生わかりませんように
Jan
12th
Tue
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悪口は悲鳴だから よく聞けばその人が何に悩んでるかわかるよ
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君は一つの死体をかついでいる小さな魂にすぎない。
— エピクテトス (via kayama) (via dannnao) (via kml) (via jacony) (via zukke) (via repsychose)
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私たちの脳には、頭の内側から来る情報と外側から来る情報を対照させて、その違いを認識するという独特の能力がある。その結果として生じる知覚が意識である。内側の世界を経験する――白日夢を見る――と同時に外側の世界を経験していなければ、「内」と「外」の概念もなく、「私」と「私以外」の概念もない。
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私たちの社会では、だいぶ前に「消費行動を通じてはじめて『自分らしさ』は基礎づけられる」ということがルール化された。
どんな家に住み、どんな車に乗り、どんな服を着、どんなワインを飲み、どんな音楽を聴き、どんなレストランで飯を食うか・・・といった一連の「商品選択の偏り」のことを「アイデンティティ」と名づけることにしたのである。